美しい黒髪を保つための古来のヘアケアと、歴史に移り変わる女性の髪型

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古来より美しいといわれ続けている、日本人女性の黒髪。現代では、アジアンビューティーとして美しいアジア人を象徴するキーワードとしても注目されています。

そんな黒髪は、現代までどのように美しさを保っていたのでしょうか。今回は、古来のヘアケアや女性の髪型の歴史などについて、ご紹介します。

古来のヘアケアとは?

さねかずら 日本のヘアケアの起源は、飛鳥時代からといわれています。
飛鳥時代から奈良時代の女性は、「さねかずら」という植物の葉っぱなどから取ったネバネバとした液体を髪に塗っていたそうです。長い黒髪をより艶やかに美しく見せるために使用していたといわれており、現代のワックスやトリートメントのような役目を果たしていました。

平安時代になると、今度は「ゆする」と呼ばれる米のとぎ汁が使われるようになりました。ゆするは、長い髪をくしでとかす際に使われていたようです。

そして江戸時代以降になると、髪を結う女性が多くなり、髪が乱れないように固める「びんつけ油」が出回るようになりました。
また、飛鳥時代から奈良時代に使われていた「さねかずら」も変わらず人気があったようです。びんつけ油は現在も芸妓さんが使用しており、お相撲さんのちょんまげにも使われています。

髪型の歴史~平安時代から江戸時代まで~

髪を結った平安時代の女性 次に、女性の髪型の歴史を見ていきましょう。時代劇や百人一首の絵柄などで見かけるように、平安時代の女性の間では長く髪を伸ばすことこそがおしゃれだと考えられていました。

そのため、女性たちは競い合って髪を伸ばし、手入れをしていました。中には、髪の長さが7mにもなっていた人もいたそうです。長い髪を垂らす髪型は、それからしばらく続きましたが、江戸時代に入ると髪を結う習慣が生まれました。

歌舞伎の前進となったとされる「お国歌舞伎」を舞った女性が、男性の役作りのためにまげを結ったところ、これが女性たちの間で人気を集めました。名前は「若衆髷(わかしゅまげ)」といい、遊女たちの間で大ヒットし、それが一般女性にも伝わり流行へとつながりました。

寛永頃には「兵庫髷(ひょうごまげ)」と呼ばれる、頭のてっぺん近くの後頭部に輪っかを作り、髪を1つにまとめるスタイルが流行しました。
また、浮世絵から広まった「春信風島田髷(はるのぶふうしまだまげ)」というヘアスタイルもありました。春信とは人の名前で江戸時代中期に活躍した浮世絵師です。

髪型の歴史~明治時代から昭和まで~

明治時代からは欧米文化が取り入れられるようになり、髪型も大きく変化していきました。
髪を長く伸ばす女性の伝統的な髪型から、簡単に結うことができる「束髪」という髪型が流行しました。束髪には「西洋上げ巻」「イギリス結び」「マーガレット結び」など種類も数多くあり、どれも和服に良く似合ったそうです。

その後日本は大正時代に入り、初期では「ひさし髪」という詰め物を入れて髪を大きく膨らませる髪型が流行しました。第一次世界大戦後は、詰め物を入れない髪型が流行し、大正時代末期では「ショートヘア」などの新しい文化も現れました。
またこの頃、アメリカからパーマの技術が入ってきたため、日本女性はこぞって長い髪を切り、「パーマ」や「ウェーブ」をかけたそうです。

そして昭和時代に突入し、イギリスのヘアケアメーカーが開発したカットが大流行しました。それまではカミソリでカットしていましたが、カット方法がはさみに代わりヘアスタイルは更にバリエーションを増やしていったのです。

おわりに

古来より、女性はヘアケア用品として「さねかずら」や「ゆする」、「びんづけ油」などを利用して美しい髪を保ってきました。かつては髪が長いことが美しいとされていた時代もありましたが、時代によって女性の髪型の流行は変化し続け、現代では、ヘアカラーなどで手軽に髪の色を変えることができるようになりました。

しかしいつの時代も、美しい黒髪は多くの人に愛されています。ヘアスタイルが多様化した今だからこそ、健康的で艶のある黒髪を目指してみてはいかがでしょうか。